学習障害(LD)について 私たちのように、家庭教師で子どもと1対1で学習を一緒にしていると、 「あれ?この子の理解のできない様子は他の子どもさんとは違うな」と 気づく事があります。学習障害かな?と思える瞬間です。 学習障害は知的障害とは違うと思います。医学的定義は分かりませんが、 学習障害の子どもさんは、普段のやり取りは何の違いもなく、他の子ども と差はありません。普通に会話し、子どもどうしで楽しく遊び、冗談を 言ったり、スポーツもそれなりにできたりします。 また算数の九九や漢字を覚える事も大して差がみられない事も多いです。 なので、塾や学校では、多くの子どもを一度にみていますから、それ にはなかなか気づきにくいのです。 成績の悪い子どもがいても、それは単に勉強していない子どもで片付け られるケースが多いのです。またもし分かっても、特に公立学校の先生は それを親に伝えにくいケースも多いのです。 理由は、親がそれを受け入れられない気持ちが強く、そんな事を言う先生の 方を攻撃してしまうからです。そんなの当たり前ですよね、 そもそも学習障害っていう分類がおかしい(これは最後の方で説明) 公立学校の先生は悪く言えばお役所仕事で、”事 なかれ主義”です。「あなたの子どもは学習障害ですよ」と伝えた所で、 誰も喜ばず、給料も上がりませんし、伝える義務もありません。そんな 状況であえてそれを伝える公立学校の先生がいる訳がありません。 これは公立学校の先生が悪いとかではなくて、そういう システムになっていないだけです。 私も学習障害とは専門的に定義できる訳ではありませんが、やはり多くの 子どもさんと1対1で学習していますと、それは他の子どもさんとの比較で 分かるようになります。臨床経験の多い医者と同じです。文や言葉で1つに 定義しにくいのです。私の表現では上述のように「理解のできない様子が 他の子どもさんとは違う」という事になり、どこがどのように違うのか、 という事を定性的、ましてや定量的には表現が難しいのです。 一例をあげますと、「・・・はこういうことです(A)」また「・・・は こういう事です(B)」。では「(A)の事象と(B)の事象を考え合わせると ・・・という結論が考え出せるでしょ」というと、多くの子どもさんは それを理解する速度に個人差はありますが、難しくてもなんとか理解して、 同様の出題には、なんとか解答を出せるようにはなれます。 しかしある学習障害が疑われる子どもさん は、どうやってもそれができない、という事になります。何度、ゆっくり、 優しく、かみ砕いて教えても、どうしてもある壁を越えられません。 でも年齢が進むと越えられるようになる事もあるでしょう。 そこでもっとも大切な事は、学習障害であろうとなかろうと、そういう子ども さんを「傷つけない事」です。あまり上述のような事を無理に何度も教え込むと 子どもは心の中でパニックになったりします。 別に分からなくても良いのです。誰もが学者にならなくても良いのです。 人には千差万別な才能があります。数学や理科ができなくても、何の問題も ありません。学校の成績などは無数にある人間の才能のたった1つの評価でしか ありません。人間はそんな単純な生き物ではありません。 大切なのは子どもさんの幸せです。幸せ=お金ではありません。裕福でなくても 自立して生活ができ、その生活の中に喜びがあれば、それが幸せな人生では ありませんか。そういった価値観を「親」と「子」で共有し、本当の子どもの ためになる教育をしてあげるのが、親や教育者の義務ではありませんか。 学習障害の子どもさんは、学校の学習では、わかる事だけを練習して、 試験でその部分だけ解答できれば、それで十分です。 できる事からやればいいと思います。 それ以上を周囲が要求しない事です。学校の先生に相談する必要もないでしょう。 周りの子どもさんと楽しくつきあえているなら、それで十分です。 学校の成績などは低くても、それは人間として低いとか悪い訳では全くありません。 それを子どもさんが気にされないように、導いてあげましょう。 学校で「成績の悪い奴はバカだ」と冷やかされても、人間成績だけじゃーないさと、 ほがらかにいられるような気持ちにさせてあげる事が大切です。 胸を張って正々堂々としていればいじめだって受けないです。 加齢と共に、理解できなかった事でも幾分理解が進むこともあります。 また学習障害があっても、別の才能がある子どもさんもたくさんおられます。 その子どもさんの好きな事で「精一杯がんばれる事」を伸ばしてあげましょう。 学習障害だからと言って、がんばるのが無理という訳ではありません。 我慢してがんばれる強い精神力はどんな人にも重要なことです。 そもそも学校で習うような事は一般社会ではほとんど使いませんよね (学者や研究者は別ですが)。 学校での教科などはその程度です。なのでそんな成績がいくら良くても 生きていく上ではどうでもよいのです。 数学ができなくても、ファッションデザインができれば十分です。 数学ができなくても、とてもおいしい料理ができれば十分です。 数学ができなくても、人付き合いが上手なら十分です。 数学ができなくても、手先が器用なら十分です。 数学ができなくても、優しく正しい心とそれを実行できる強い意志があれば 十分です。 数学ができなくても、強い肉体があれば十分です。 裕福でなくても、生活できる程度であれば十分です。 それから最後に、もし自分の子どもが学習障害ではと悩むご両親がおられたら、 それは大きな間違いです。その確かな例を1つ挙げておきます。目の見えない人は聴力 が大変発達しています。小さい音、早い音声でも聞き分ける事が、普通にできます。 音声録音テープの早送りを聞くと、目の見える人は何を言っているのか分からない ものでも、見えない人はごく当たり前に聞き取れるのです。つまり、人間の脳は処理 できる情報の「量」はみんな同じと言うことです。脳の能力はみんな同じなのです。 目が見える人は目から入る膨大な量の映像 情報を脳で処理しなくてはいけません。その分、耳からの処理ができない。一方、目が 見えない人は、目から入る情報を処理する必要がありません。その分、耳から入る 情報を処理する能力に回せる訳です。だから早送りの音声も聞き分けられるのです。 つまり、もし学習障害で、ある特定の処理ができなくても、その分、他の人に出来ない 何かの能力を持っているという事です。 それはどんな能力かはすぐには分かりません。その分楽しみでもありますね。 学習能力の一部が欠けているぐらい何でない事、全く気にする必要もありません。 そもそも「学習障害」っていう分類や言葉がおかしいのです。人の脳はみんな同じ能力量です。 凸も有れば凹もあるのです。学校の一部の科目で凹でも、他のどこかの能力が必ず 凸になっています。 人それぞれで得手不得手があるのは当たり前の事です。そんな事にも分からず対応できて いない学校教育システムがおかしいのです。 もどる |